昭和46年07月30日 朝の御理解
御理解 第83節
「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてることはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ。」
人より一年遅れて分限者になる気でおれと言う事は、どう言う事だろうかと思う。一年とか二年とかと言う年数の事ではないと思うですね。神信心すれば我慢我欲は出来ぬぞと仰せられる。我慢我欲は出さんで済む信心生き方。我慢我欲をせんで済む言わんで済む、思わんで済むだけの信心。もちっと言うならば真の信心真の信者。真の信者になってから、おかげを受けよと言う事だと私は思う。間違いがないですからね。
真の信心が分かり真の信者になってから、私は本当の分限者になるおかげを頂かにゃならんと思う。まあその日その日のおかげを受けて行かねばなりません。その日その日の立ち行きのおかげは頂かなきゃなりません。その日その日が立ち行けばと仰る。立ち行くおかげけれども分限者になると言う事。一年でいや一年じゃない、それこそ濡れ手で粟の掴み取りと言った様な一時に巨万の富を得ると、そういう人間は夢を見るもんです。苦労をせずに一攫千金やはり宝くじなんかが売れるのは。
そういう人間の弱い心理をよく把握したものだと思うですね。私は、どうでも思いますのはね、分限者の徳です。分限者にならにゃいけません。それにはね、人よりも一年遅れた、遅れてという心にならにゃいけません。そのここでは、一年遅れてと云うのは、一年二年と云う年数の事じゃない。真の信心、真の信者、にならせて頂いてから、頂くおかげが、私は分限者のおかげだと思う。又分限者の徳を身につける。分限者としてのおかげが受けられると思う。
その為には所謂我慢我欲は出来ぬと仰せられる。我慢我欲を云わんでも、思わんでも行わんでも済む信心。ちょっとした誘惑にのって金儲けに荷担する。そして根も子も取られるといった様な事になったり、よしそれが当たったり致しましても、私は先ず、我慢我欲を言わんでせんで済む信心を頂いてからが、本当だと思う。いわゆる真の信者、真の信心を頂いてから、真の信者にならせて頂いてから、そこで真の信心を分かり、真の信者を目指さなければならんのです。
ほんなら真の信者とはねどういう事であろうかと。こういうと大変とても真の信者なんて、それは難しいと、真の信心なんか中々難しい。真の信者には中々なれんと思うておりますけれども、実はその気になれば誰でも真の信者になれるのであります。真の信者とは、どういう事であろうか。真の信者とは信心が有難うなると云うことです。そんなら私も、信心は有難いと思っとりますと云う人が沢山あるでしょう。けれどもそれはおかげが伴うから、信心な有難いと云いよるとではないでしょうか。
日々素晴らしいタイミングの中におかげを頂くから、本当に神様ちゃ、一分一厘間違いないなぁと云うて、信心が有難いと言いよるとじゃないでしょうか。それは信心が有難いと言うておるのではない、おかげが有難いと言うておるのです。
テレビで、外人の人が、何の宣伝か知りません。有難うございまぁすと言うとがありましょうが。やっとかっと有難うございますと言いよる。ほんの口から先で、有難うございまぁすと、まめらん口で云うておる。あの場面を頂くんですよね、今日。そして、ここの今日の八十三節を頂いたのです。だからそこのところと、どげな風なな繋がりが出来るだろうかと思わせて頂いてですたい。
一年遅れて分限者になる気になるとか、我慢我欲は出来んと言う所から、私は一年遅れてと云うのは人よりか一足先じゃなくて、一足遅れてから分限者になればよか。そういうものじゃないですね。どうぞお先にどうぞと言うて人を先にしといて、自分が後から一年後になれるかと言うてなれはしませんよ。一年遅れてと言う事はおかげ急ぎをせずに、まず我慢我欲を云わんで済む自分にならせて頂く事を修養させて貰える。ほんに信心ちゃ有難かと云いよるけれども、それこそ芯から云いよるとじゃない。
有難うございまぁすであり、いわゆるそれは、おかげが有難いのである。皆さんの信心を一つよく、胸に手を置いて考えて見て下さい。ほんに信心な有難かち云いよるけれども、それこそ一分一厘の間違いのない働きを、そこに見たり、素晴らしいタイミングの中に、成程神様ちゃ有難いなぁと云うとるけれども、それが有難いのでしょうが。成程親先生任せになっときゃ安心だと、だから信心が有難いと云いよるのでしょうが。もし親先生がいなくなったら有難くなくなって来る。
おかげがはっきりして来んと、もう有難くなくなって来る。だから私共が有難いと云うておるのはです、そういうおかげが有難いと云うておるのであって、本当に信心が有難いと分からせて貰う。そこにはね、ソロバンを持っていない。信心そのものが有難いのである。私は思う。真の信者とは、信心が有難いと分かる。そしてです、それが段々信心の有難さが分からせて貰うて、神を信じる心が、いよいよ絶対信となるのだ、絶対信。それが真の信心であり、真の信者なのであります。
だからそこを目指すのだ。信心が有難い、そこから神様を信じて疑わない、絶対信が生まれて来る。それはどういうことかと云うと、成程、おかげは受けられてはいないかも知れんけれども、それはまだ、自分の方が信心が足りんからだと分からせて頂く信心。神様は絶対のものなんだ。何時も申します様にね、神様は一つの的の様なものだ。これだけは動かない、絶対のものなんだ。こちらが、その的を目指して弓でもええ、鉄砲でもええ、まぁ撃つ事になる。
だからこちらの腕の方が未熟なのであって、神様は絶対のものであると信じられる信心を私は真の信心。いわば真の信者と思うそういう信心を私は真の信心と思う。だからおかげと云うのは、もうそれの陰の陰の様なもの。おかげを頂くから有難いのじゃない。それは勿論今日はおかげとその信心というものを切り放した様な言い方をしておりますけれどもね。そういう例えば真の信心が出来、真の信者にならせて頂く事の願いを持っておればです、おかげは切り放しておっても日々立ち行きおかげの頂けれる。
神様ちゃ間違いないなぁと云うおかげが受けられるのです。だからそれを見て、間違いないなぁではなくて、それが無くても間違いないと確信の出来る信心、それを私は、それが信じられる様になる。それが真の信者じゃと私は思う。今申しました事が、今日の御理解のポイントになるところですからね。とにかく、そこんところを思うて見て下さい。的が外れる。一つも当たらん。一つもおかげと思える様なおかげにも接する事が出来ない。それでいて信心は有難いのである。
それでいて絶対信が生まれて来るのである。神様の方には間違いないと。間違うておるのは、こっちの方が間違うておるのだと云う行き方なんです。今日は結局分限者になると云う程しの御理解なのですから、やはり、そこんところが本気で取り組まなきゃならんのです。分限者いわゆる分限者の徳。私共は、それこそ人よりも早くおかげを頂きたい。それこそ、願わくば一攫千金のおかげでも頂く事が、そりゃ凄さまじい神様の働きと思うたり。それこそ、百万円の宝くじが当たります様にと思う様な心でね。
信心をしておる人が実は、多いのではなかろうか。それでは、それは真の信者じゃないと云うこと。真の信心を目指しておるとでもないということになる。何十年、その信心が続いても、いわゆる、日々の立ち行きのおかげを頂いたにしても、分限者にはなれません。分限者の徳は身に付きません。信心が有難いと分かる信者を、真の信者と云うのである。だから、その気になったらですね。とにかく、教えを頂いたら、その教えそのものが有難い。だからその教えに基づいた生活が出来る。そのことが楽しい。
これはもう絶対そうなんです。今日は、おかげを切り放して話をしよりますよ。今迄の行き方が、百八十度の転換を見る。ああ成程これが天地の道理に合うた生き方であろう。と、天地の道理に合うた生き方が出来ることが有難い。まぁそれでもおかげは受けんと致しましょう。そういう生活が出来る様になった。そういう事が分かったと云うことだけでも有難い。そげんなったら、こげなおかげを頂きました。だから有難いち言う、それじゃなかち、今日は言うてるのは。
親先生の御理解を聞いてから、こげな心がけになりましたら、こげなおかげを頂きました。そして有難いです。そのおかげの方が有難いです。そげんなったとが有難いとじゃない。それが真の信心とは、そういう信心を真の信心と云うのであり、真の信者と云うのはです、教えを受けて教えを行じさせて頂く事、それだけで、成程これが人間の本当の生き方であろうと分からせて頂く。それだけでも有難いと分かる信心。そこにはおかげはないですよ。いっちょん、今迄と同じ事ですよ。
ところが、金光様の信心させて貰うと、そういう風になりますと、おかげが付いて来ますよね。だから、どうもついて来ているそのおかげが、あぁ神様間違いありませんと言うて有難うなる。それが有難いと云うておる間は、まだ真の信者でもなからなければ、それは同じ様であっても真の信心じゃない。真の信心とは、利役利益という様なものは別にして、そういう生き方を人間の生活の上にです、日常生活の上に表して行き、行じて行くことがです、有難いと分からせて頂く信心。
そういう信心がです、私は自ずと、我慢我欲を云わんで済む様になって来るとこう思うです。昨日は敬親会でした。もう熱心なことです。けどもやっぱり、お婆ちゃん達でも、みんなその、結局我情我欲が先に出る。先月の時に、金一万円、どこか置きどこ忘れちから、なくなった。お願いしとりましても、出てきません。どうしたことでしょうかち、もう出て来んでんよかじゃんのち、私が云いました。家には家賃が、他所よりか幾らか安かけん、他所並に上げようと思いますが、どげんでっしょうかと。
あんたが持ってばし行くごつ、そげな事は、娘やら息子に任せとかんのと私が言いました。そればってん、娘さんの方は、もうそげん高う取っちゃ出来ん。もう他所さんは他所、家は家で行くけんでち言うけれども、婆しゃんが、どうでん上ぐるち云う。そんならあんたが、親先生にお伺いせんのと云わっしゃったらしいです。それてそりば、他所並に上げたいとこう云う。それは先生、私は一銭でん、自分の身に付けようちは思いよらんとですよち。もう孫やら子供が可愛いけんですよち、言わっしゃった。
馬鹿のごとだ。娘は反対に上げんち言いよるとじゃん。娘の方が信心が分かってる。そればってん、まぁあなたが上げると思いよるとの、半分ばっかり上げときなさいち。そしたらどうか、不服のごたる風でした。もうこれは実際のところがね、まあ年の順から行くなら、あなた方は、やっぱり、八十の人が百まで生きったところで二十年しか生きられんと私が。だから本気で一つ、我情我欲をなくしてです、とにかく有難い有難い、子供やら孫達が、婆しゃま婆しゃまと云うちくれるだけが有難い。
それを云わんと腹の立つという様な事ではね、ほんなごと極楽行きにはならんよと云うてから、昨日は少し私は、卓を叩く様にして婆しゃま達にお話をしました。私があんまり熱心だもんだから、自分達も一生懸命、今日の御理解は有難かったと云いよんなさったが、どんな風でございましたでしょうかね。結局、年を取っておってもです、真の信心を目指しておらんと、七十になっても、八十になっても同じ事を云うです。だからお互い、私共でも同じ事です。
今私が今日申します様に真の信心を目指し、真の信者にならせて頂く事を願いとして行かないとです。何十年経ったっちゃやはりお金お金ち云わにゃんごとなるし、嫁ごが親切が足らんとか、孫達が年寄りをろくそにするとかと言う様な風にばっかりしか、考えられん様になります。自分達は長年若い時から信心しよるけん、そげな事はないと言う事はない。おかげを頂くけん有難いと云う信心じゃです。それは真の信心じゃないて。今日はだから、私どもが本当に分限者になる事の為にですよ。
一年遅れて分限者になる気になれと云うことは、信心も分からずに、おかげを頂いたっちゃつまらんと。信心を頂いておかげを頂けよ、分限者になれよと云う意味なんです。だから、真のそれはどういうことかと云うと、我慢我欲を云わんで済む私達、それをもう少し云うならば、真の信心をさせて頂くと云うこと。も少し云うなら真の信者になると云うこと。それは先生真の信心てん、真の信者になるとは難しかと云うて、何かえらい手の届かんところの様に思うて、それに取り組もうとしない。
そんな事じゃない。本気で取り組ませて頂けば誰でもなれる。それはどういう事かと云うと、おかげが有難いのじゃない、信心そのものが有難いと分かる信心、と今日は私は申しました。だから一辺、ここでおかげを切り放して、お話せんとお話が分からんから、有難いお話を頂きますよ。はぁこういう生き方があったんだと分からせて頂く。それだけで良いじゃないですか。天地の道理に合うた生き方、成程こういう生き方があったんだと分からせて頂く、それが真の信心。
所が今申します様にそういう風にならせて貰うとおかげが付いて来る訳です。そすと信心だけでなくてからそのおかげが有難い。神様ちは一分一厘間違い無いと云うて、そのそして今度は一分一厘間違うてくると、神様を恨む様な疑う様な事になって来る。絶対信が生まれて来ない。そして段々段々分からせて頂くと言う事は、天地金乃神様の御働きと云うものは是は絶対のものであると、絶対信が育って来る信心。
それをいわば的そのことで話しましたでしょう。的は動かないのだと絶対、だからこちらの技術が進歩して来りゃ、それこそ百発百中当たる様になるのだ。当たらんじゃったけん、神様はござるじゃござらんじゃら分からん。自分の思う様にならんじゃったけんで、神様もいい加減なもんといった様な事ではなくて、これはまだこちらの信心が足りんのだ、こちらの稽古が足りんのだと、神様を絶対のものにする頂き方、それを絶対信と云う。ですからこれはね、その事に取り組んだら難しい事じゃないです。
教えを本気で頂いたら、教えそのものが有難いと云うことになる。教えを行の上に表して行ったら、それが楽しうなって来る。それはおかげは切り放してあるですよ。昨日敬親会、それからお茶を頂いて、最後にもう一口、ひとつ聞いて頂こうと云うてお話をさせて頂いた事でした。例えばね、あなた方が、八十の人は八十年間、この世で苦労して来なさった訳ですよ。七十の人は七十年間、この世で苦労して来なさったんですよと。だから信心とは、ここに締めくくり、その七十年なり八十年なりの苦労がね。
苦労として実って来るおかげを頂く為に、私が言う事を良く聞いて下さいと私が。あなた方が七十年間苦労をして来たんですよ。そうにゃ若か時にはああじゃった、こうじゃったと話されます。だから八十年間も苦労をしてきたんですよ。それがね私が云うことを分からんと、その八十年の苦労が、それこそ水の泡になりますよ。私が言うことを聞きますとね、その八十年間という苦労がね、七十年間も苦労をした、その苦労がです、実ることになるのですよ。
そしたらみんな真剣に、やっぱ私がそこを繰り返し言うものですから、ほんなごて何十年間苦労して来てある皆。それてやっぱそれが実る話ちゃどげな話じゃろうかと思うて、それこそ目を輝かせて聞かれる。例えて云うと苦労をすると云う事を、あの墨を擦ると黒うすると云うですよね。云うならば八十年間も、墨をすり貯めて来てござる訳ですいうならば。七十年間も墨をすり貯めて来てござる訳である。そこであなた方が大きな筆を持たなければいけません。
小まか神格のごたるとを書くごたる、筆どん持っとったっちゃ出来ん。大きな心を持ちなさい。大きな心を持つことが大きな筆を持つことになる。そすと今日からは、不平やら不足が言えんごとなりますよ。もう云わんで済むごとなる。もう孫どんが嫁ごどんが云いよるとは、もう自分の心の中に泳がせる事が出来る。それでも目に余る時には金光様と祈ってやるだけになる。その大きな心が、大きな筆です。だから大きな筆で大きな字を書くという事が出来る程しの実りになるのです。
もし私が云うことをそこんところを、やっぱり何と云いますか、年寄りのひがみ根性ども出しよったんでは、まだもう七十にも八十にもなってから、お金儲けの事ども考えておってはです、不平不足が必ず出る。そうすると八十年間もすり貯めてきたその墨は、もう水の泡になって仕舞うですよ。八十年間の、そのすり貯めて来た苦労が、ここで生きるか死ぬるかと云うことですから、それを生かす為に、いよいよ大きな心にならなければいけないと云うて、最後にお話したことでした。
これは年寄りだけの事じゃありません。私共に於いてもしかりであります。折角苦労をする、折角修行する。その修行がね、一つ、生きて来なければいん。為には、私共は、大きな筆を持たせて頂かなければね、それを、大きな字に表すことは出来んじゃないですか。そこが我慢我欲は出来んぞと仰っておられる。それなんです。濡れ手で粟の掴み取りになるてんなんてん、それこそ思いもしなくなります。そして、分限者の徳が身に付いて来ることが楽しい、有難い。
それは信心が有難いと分かって行く度合が深うなって行けば行く程に、愈々生まれて来るのは、絶対信である。そういう信心を基礎としたもの、土台にして受けて行く所のおかげ。もうこれは絶対なものです。所謂あれよあれよと云う程しのおかげになって来るでしょう。所謂堰を切った様なおかげが頂かれる。もうどれだけ頂いても大丈夫ですものね。我慢我欲をせんで済むだけのものが出来とるし、絶対信を頂いとるし、信心が有難いと言う事になっとるからもう、信心から反れる筈がない。
そこに初めてです、私は一年遅れて分限者になる気になれとは、そういうことだと思う。お互いひとつ、本気で分限者の徳を身に付けたい。付けなければなりません。為には、私共の信心をもう一遍吟味して見て、果して自分は有難い、それこそテレビで云ってる外人さんの有難いじゃない、アリガトゴザイマースという様な有難さじゃいかんち言うこと。口からだけで言いよる。
それはおかげを頂くけん有難いのぉやと云いよるだけのこと。いっちょおかげを切り放してみて、自分は信心が身に付いて行きよる事が有難いと分からせて頂いておるならば、それをいよいよ育てて行くところのおかげを頂いて、同時に絶対信、これはもう間違いのない。神様の方には一分一厘の間違いがない、只間違っておるのはこちらの方だとして、こちらを改めて行くと云うところの信心にならせて頂かなければならんのであります。
どうぞ。